
<団体名称の表記について>
本サイトでは、「特定非営利活動法人」と「NPO法人」の2種類の団体名表記がありますが、これは各団体の登記上の名称による違いですのでご了承ください。
代表 小林 賢司

代表 小林 賢司
ケナフ・環境教育・手しごと・歴史・文化関心のある方、集まってください。
ここから新たな発信をしていきたいと思っています。
代表者兼職
お食事処 杜のこばやし 店長



4年生39名
2008ポット、たまねぎ作業
H20.6.9(右)
全校生232名、各学年ごとに2008本を地球環境サミット(洞爺湖サミット)に合わせて畑に植え付け。H20.7.7(左)
【平成19年度】
■会津美里町高田地区永井野小学校4年生のケナフによる環境教育
■藤川小学校6年生のケナフによる環境教育
【平成20年度】
■会津美里町教育委員会、宮川小学校との協働の「地球温暖化対策自然環境体験事業」でのケナフの育成・紙化

H20.12.3 宮川小学校4年生 ケナフ紙すき体験会(藤川公民館にて)
江戸時代から明治時代まで西勝村では、紙梳き(和紙の製造)が盛んに行われていました。会津藩が寛文六年(一六六六)に作った『新編会津風土記』には、西勝村の土産品として「紙、質厚く、堅強にして、虫食わず、手形証文の用に充つ、俗に西勝紙と云う」と記されております。
これを今の言葉で表すと「紙の質が厚く、丈夫で虫が食わないので、大事な書類(手形証文)に用いるのに適している。一般には西勝紙という。」という事で、他の紙とは区別して、「西勝紙」と呼ばれており、会津藩では藩の御用紙として西勝村に年貢としてその紙を納めさせていました。
当時、寛文5年に高田組郷村『万改め張』という調査書によると、「以前は紙二十九束だったが、近年の村の事情で現在は十六束に減らした。その他に一人一束宛て上納するなり」と書かれており、現在の紙の単位は一しめ千枚ですが、その時代の一束は十枚ではなく百枚と思われ、かなりの量を生産していたと考えられます。
その為、西勝村では他の村から紙の原料である楮を金二両分の購入が認められており、村全体の紙生産の量や販売数などは記録が残っていないが、紙はとても貴重品であったという事です。
その当時、西勝村は戸数六十六戸、人口が四百人ほどで、米や大豆の生産のほかに、楮を買い、紙を漉いていたと記されています。
また、西勝村が紙を製造することになったのは、湧水が豊富でどこの家にも湧水の井戸を持っており、紙漉きに必要なきれいな地下水が出ていた事と、当時、村の北側に宮川が流れていたために、河原跡で楮のような潅木しか育たなかったと考えられます。
その条件をうまく利用し、副業として紙漉きを取り入れ、虫の食わない質のいい紙を工夫して作り、会津藩の御用品にしたのです。
虫の食わない紙は、サイカチの実をつぶした汁を紙に混入したと言われ、サイカチの実に含まれるサポニンが防虫に効果があったという事で、西勝村の人々の知恵と工夫だといわれています。
明治時代以降、年貢制度がなくなり、自家用に紙漉きをしていたが、養蚕が国の政策として奨励され、村中で楮を起こして桑の木を植えて蚕を飼うようになり、その繭を売って暮らすようになったことから紙漉きはすたれました。
それでも、昭和の初め頃までは何軒かが紙漉きをしていたと言われるが、冬仕事にする程度で、そのうちに姿を消しました。
また、道具や井戸、おおきな釜なども戦後昭和二十五年頃にはなくなりました。
今も語られる話として、西勝紙は虫が食わないという事で、江戸時代に塔寺八幡宮神社の「長帳」という会津の出来事の記録を八百年も書き継がれている記録簿の用紙に使われたとの事ですが、紙の取り扱いはすべて肝煎(きもいり)という藩から村に派遣された村役人によって行われた為、一般の家には残っていないが、江戸時代の終わりころから明治にかけて、西勝村で漉かれた紙は「証文」として残っている。
【お問い合せ先】
代表 小林賢司(こばやしけんじ) TEL:0242-54-3267